梅人(うめんちゅ)プロフィール

挫折ばかりの私の略歴


2007年 一般職として日本郵政公社に入社に就く。

2012年 東日本大震災の翌年に、交際中であった現在の妻と結婚。理由は「お互いに一戸建ての自宅が欲しかった為。」

35年ローンを妻と折半で組む。3700万円ほどの家を購入。

2014年 中間管理職に昇進。ホワイトカラーに転向するも、精神を病み病休。

2015年 現場の中間管理職として復帰。

2016年 第一子が誕生。

2012年 東日本大震災の翌年に、交際中であった現在の妻と結婚。理由は「お互いに一戸建ての自宅が欲しかった為。」
35年ローンを妻と折半で組む。3700万円ほどの家を購入。

2014年 中間管理職に昇進。ホワイトカラーに転向するも、精神を病み病休。

2015年 現場の中間管理職として復帰。

2016年 第一子が誕生。

2020年 縁があり転職。13年間勤めた日本郵便を退職。妻が妊娠中。

生まれた年について

1985年生まれ。

昭和生まれの最後の世代になります。

令和のこの時代に昭和生まれとは時とは残酷なものですね(笑)。

母は当時22歳で私を生んでいますので若いうちに産んだのだなぁ。



1985年の大きな出来事といえば、

  • ゴルバチョフがソビエトの共産党書記長に就任
  • スーパーマリオブラザーズが発売


当時はまだソビエトの時代であったと考えると時代を感じる。

ソビエトを終わらせたゴルバチョフがこの時トップになったのである。


スーパーマリオは本当によくやりました!

孫の為にと、ばあちゃん家にファミコンがあって、よく兄や従兄弟とゲームをしたものです。

幼少時代

泣き虫だったのを今でも覚えている。

親のゆうことはよく聞く良い子でした。


幼稚園時代に初めてチョコレートをもらったのを覚えています。

幼稚園、小学校くらいの時は割りとモてたとゆう過去の栄光にすがるヤツ。

小学生時代

水泳を習う。

5年生くらいの時には選手クラスで週に6日スイミングにイヤイヤ通っていましたw

大会とかも山ほど出ましたが入賞するなどの成績を納められるほどのスイマーではありませんでした。

小学2年生の時、初めて女の子から告白されました。

当時はうれしい気持ちと照れくさい気持ちとなんだか表現できないような気持ちだったのをよく覚えています。

しかし、その告白してきた女の子もませてますね!

中学時代

水泳の習い事はやめて体操部に入る。

ちなみに体操部に入った理由は

バク転できたらかっこいい!

っとゆう中二的発想からでした。なんとかバク転くらいはできるようになりました。

高校時代

高校時代は近くの普通科高校に自転車通学と平凡な高校生活を送る。
彼女もいなかったので、友達と遊んでばかりいましたね。

全然もてませんでした。

家に帰ってドラマの再放送ばかり見ていた記憶があります。

”アンティーク”とか”踊る大走査線”とか。
そんな平凡な私でも事件はあります。

原付にまつわる事件です。

原付を買った!

高校生といえば免許が取れるようになります。

特に原付は筆記試験のみで取れるので高校生の憧れでもあります。

免許を取って次のハードルが原付を買うこと。



私はバイトをたくさん入れていたほうではないです。

週に三回三時間ほど。

当時の時給が750円でしたので一ヶ月30000円ほどの給料だったのでバイクを買うには足りません。

年末の郵便局のアルバイトを掛け持ちしていました。

当時は外務の短期バイトがあったのでそれを利用し20万円ほど貯金をして、新車の原付ライブDuo君を現金一括払いで購入。

そして納車

納車日はあいにくの雨。

早く自分の手元に置いて触りたい!その衝動で私はバイク屋までいき雨だからカッパが必要だといわれました。

当時は

傘があればいいのかな?

っと謎の思考に至っていましたので、あきらめて一度帰宅。

その後雨が上がり、晴れてきたので、急いでバイクを引き取りにいきました。

早速近所の友達に自慢しに行きバイクにのってグルグル回っていたところ・・・




ガードレールに突っ込みました・・・



原因は前方タイヤがロックしたことでした。

雨にぬれた四角マンホールの上で急にブレーキをかけたところコントロールが効かなくなりました。

今思い返せば、後の安全運転につながる良い教訓になりました。

しかも新車を事故車にするとゆう、一生忘れられない思いでつき。

修理費は5万円くらいだったかな…。



なんやかんやで高校生活は終わり、受験に失敗してフリーターになります。

フリーター時代

ニートは嫌だったのでとりあえずバイトを探して、お金を貯めて専門学校に行こうと思いました。


専門学校っていってもやりたいこともなかったので公務員系のヤツです。

何とか胸を張れる職業につきたいとゆう、かっこつけ野郎でした。



やったバイトは工場での積荷のアルバイト。

やることは簡単。パレットに流れてくる荷物を積むだけ。
積んだ荷物はフォークリフトが運んでくれます。


うーん単純労働!実は昔は単純労働がよいと思っていました。接客業は向いていないと思っていたし、何も考えずに機械のように仕事をこなすほうが楽だと思っていたからです。


実際にやってみた感想は…持久走のように感じました。


持久走も単純作業です。あれに近いです。作業中は別のことをひたすら考えています。仕事のことを考えると時間経過が遅く感じられるので、考えてはいけません。

やっぱり人間だから自分で少し考えてできる作業のほうが仕事をしていて楽しめると感じました。そして一年後に専門学校に行きます。

専門時代

実は専門学校の一年生コースに通っていました。

一年生コースってのは学歴にはならないみたいです。ただの予備校扱いになります。
しかし、就職してしまえば関係ないと思ったのとお金もありませんでした。
それに早く就職したいと思っていました。



周りより一年遅れていますし…。



専門学校時代は初めての彼女ができたりと思い出深い一年でしたが、結果的には…就職できませんでした。

私は勉強はそこそこでしたが、面接はからっきしでした。

面接の勉強はまったくしなかったのです。

今振り返れば、面接対策さえしっかりしていれば合格できたのにとも思ったりもします。

そしてまたフリーターへ

どうしようかと思ったのですが、また翌年受験しようと思って二年生コースには編入せずに、単発講習を選んで再度通学。

通学の頻度は減りました。そしてアルバイトをしながら通っていました。そのアルバイトとは…



新聞配達です。



なぜ新聞配達を選んだかとゆうと、一人暮らしがしたかったから。

それと友達が新聞配達をやっていて給料がいいのと、部屋が与えられるとのことだったので選択しました。

新聞配達は専業と兼業に分かれていて、専業は新規勧誘と集金と配達。
兼業は配達だけとゆう就業スタイルでした。

私は兼業で働いていました。


新聞配達の人は本当にいろんな人がいました。

スポーツインストラクターをしながら朝刊だけ配達の人。
予備校通いながら朝、夕刊の配達の人。
大学に通いながらの新聞奨学生の人。
謎に包まれた人もいました。

給与は月給15万円くらいだったっと思います。休みは週一だったのでちょっときついですね。休刊日も夕刊は配達ありましたからね。

そして、日本郵政公社に就職が決まり新聞配達は卒業しました。このとき21歳。

日本郵政公社。そして民営化へ。

私が入社して半年ほどは公社でした。

半年後に民営化されました。なので私は民営化一年生とゆうことになります。

郵便局の仕事内容については別記事を書くのでここではあまり詳しくは書きません。

外務員から内務へ。そして病休。

外務を5年ほど経験し、内務に転向そして昇進。

順風満帆のようにも思えましたが、実は私の希望とは少し違いました。

デザインとか企画ができる部署へと希望していたので、”NO”と言えずにズルズル流されるままにいたらそのような立ち位置にいてなんだか精神のズレはありました。

今思えば断っておけばよかったとも思います。

郵便局の内務、とくに配達にかかわる内務の仕事はとても恵まれたものではないと言い切れます。



そして私はストレスの発散ができずに、3ヶ月ほど病休をとりました。



復帰したときは外務員としてブルーカラーの仕事に戻りました。

そして転職

これだけ紆余曲折があり、やっとこ見つけた日本郵便の仕事を退職することに。これは実際に中で働いてみないとわからないことが沢山あったからです。

  • 巨大労働組合
  • その場しのぎの経営計画
  • 計画と現場の温度差

この会社を信じきれなくなったのが転職する原因です。

郵便局は郵便物に関してはシェアほぼ100%です。ただでさえ郵便が減っているのに、これからの人口減の社会でさらに郵便物の現象の加速は免れない。

貯金も保険も業績はイマイチ。郵便がなくならいとは思うが、現在のサービスを維持できる未来が見通せません。

人員削減、給与削減、退職金の削減の可能性はある。…のであれば、別の業種への転職もありだと思いました。

その時たまたま声をかけていただいて安定性のある業種であったので、乗っかったとゆうこと。

これはただのラッキーでした。


どうでしょうか?人生って色々ありますね。少しでも私に興味を持ってもらえればと思います。

twitterフォローしてくれると喜びます。

twitter@umentyu_01